徳永寿昌墓碑(海津町)

訪問日平成29年5月28日

今回訪問したのは、海津町高須938にある徳永寿昌墓碑。

臨済宗妙心寺派の寺院廣?寺の霊苑内にある。

霊苑前。

県道1号線に面している。

尚、寺院の正面は、東側にある。

解説板。

徳永寿昌墓碑(解説板)

徳永寿昌は、天文十八(一五四九)年、近江国(滋賀

県)徳永村に生まれた。はじめ柴田勝豊に仕え、つい

豊臣秀吉に従い、秀次配下として美濃国(岐阜県)

高松城(市内海津町松ノ木)に居住し三万石余を領

有した。

慶長五(一六)年の関原の戦いの際には、徳川

家康の側にたち、石田三成方だった高洲(須)城、福

塚城(輪之内町福束)を攻略、さらに駒野城を攻撃

中に三成が降伏したのでそこも手中にし、戦功によ

り美濃尾張国内四郡のうち五万六百石を治めるこ

ととなり、居城を高洲に移し、高須城下の形成に力

を尽くした。慶長十七(一六一二)年七月十日没。自ら

の開基になる広徳寺に葬られた。徳永氏は、子の昌

重の時、大阪城修築に落ち度があって高須を追われ

るが、昌重の子昌勝の時許されて幕府の旗本となっ

た。この墓碑は、宝暦十(一七六)年、寿昌の百五十

年忌に子孫が建立したものである。

海津市教育委員会

最近できた解説板。

天文18(1549)年、近江国徳永村伊庭(滋賀県東近江市)

に生まれる。豊臣秀次や秀吉らに仕え、関原の戦い当時

は松ノ木城(海津町松木)で3万石を領していた。

慶長3(1598)年に秀吉が没すると、慶長の役で朝鮮に

布陣する諸将に撤兵を伝える使者を務め、徳川家康の信頼

を得る。

関原の戦いでは家康方につき、福束城(安八郡輪之内

町)、高須城(海津町高須町)、駒野城(南濃町駒野)を攻略、

さらに大津城(滋賀県大津市)の京極高次を支援した。

戦いの後、外様大名でただ一人、戦功調査を家康より命じ

られる。自身も5万1千石に加増され、高須城に移った。

戦いの翌年には高須城の修築に着手。3年がかりで城下

町を整備した。慶長17(1612)年没。自らの開基になるここ

広徳寺に葬られた。この墓碑は、宝暦10(1760)年、寿昌

の百五十年忌に子孫が建立したものである。

跡を継いだ長子の昌重は、大坂城普請の遅延で将軍の

怒りを買い除封される。高須における徳永氏の治世は30

年足らずと短かった。

墓石前。

戒名広徳院殿桂厳寿昌大居士と

慶長十六年辛亥七月十日が刻まれている。

一般的には慶長17年没だが、何故か没年が1年早くなっている。

墓地の隣には、同姓の方の事務所がある。一族?それとも、たまたま?