映画日記 『ゴンドラ』

先週末は大阪遠征だった。

第1目の後半戦で見た2本が共鳴した。

2017年5月20日(土)

『ゴンドラ』(1987年)

伊藤智生:監督

大阪九条・シネ・ヌーヴォ

今回の大阪遠征の目玉。

在阪の友達さんお二人がそろって傑作と太鼓判を押した作品。

名古屋で見逃してしまったので、なんとしても見たくなって、大阪にやって来たというしだい。

『ゴンドラ』は、先に見た『台北トーリー』の舞台である台北よりひとあし先に高層ビルが建ち並んだ東京都心の風景から映画が始まる。

ふだんは見下ろすと目がくらむような高層ビルの窓ふきをしている青年(界健太)が、ある日、仕事で出向いたマンションの一室で、傷ついた文鳥を手にして、なすすべもなく座り込んでいる少女・かがり(上村佳子)と目が合った・・・・

都会の片隅で出逢った、孤独な青年と母と子のふたり暮らしなのに、いつしか母親との会話が途絶えてしまった小学5年生の少女の物語。

青年は飲んだくれの父親を嫌い、高校を卒業してすぐに下北半島のさびれた漁村から東京へ出てきた。親元への仕送りのためか、狭いアパートでわびしいひとり暮らしだ。

かがりは初潮のおとづれや学校でのいじめを母親に相談できない。

母親は無口な娘にどうしたらよいのか分からず、いつも苛立っていた。

誰に対しても、ぶっきらぼうで挑発的なまなざしを送るかがりが青年に向かって言い放つ。

「ねえ、・・・・大人になって良かったと思ってる?・・・・むなしくない?」

台北トーリー』の「野球少年だったあの頃とはもう違う。世の中は変わってしまった。あなたは、置き去りよ」に続いてズキンとくるセリフだった。

と同時に、このセリフを耳にした瞬間に『台北トーリー』と『ゴンドラ』が共鳴した。

台北トーリー』の製作は1984年、『ゴンドラ』は1987年というから、バブル直前の同時期に、日本と台湾で若い映画監督たちが多額の借金を背負いながらも、自分たちのシナリオで、自分たちの撮り方で時代と真摯に向き合おうとしていたことになる。

ただ椅子に座って見てただけなのだが、その事実にちょっぴり厳粛な気持ちになった。

ところで劇場で買ったパンフレットが読み応えたっぷり。

「不機嫌な少女」と題した谷川俊太郎の批評が名文だった。詩人というのはすごい。

神田つばきという女性ライターが、木内みどり演ずるかがりの母親の視点で本作を論じた「冷蔵庫のなかにあるもの」も興味深かった。

実は、かがりと青年が下北半島の海岸を歩き回り小舟で海に向かう終盤のシーンを見て、このふたりはこのまま死んでしまうのでないかと、ぼんやり思った。

誤った見方なのかもしれないが、心中というか道行きのイメージだ。

てっきりそんなイメージを抱いたのは私だけかと思ったら、切通理作も「道行き」という言葉を使っていた。

『ゴンドラ』は見る人にさまざまなイメージを喚起させる映画だ。

見てから3日目になってこの日記を書いているが、高層ビルから見下ろした都会の喧噪が海の底に沈んだ風景に一変するシーン、死んだ文鳥、仏ヶ浦の白い断崖と透き通った青い海、赤い夕日、アルマイトの弁当箱と釘か錐で書いた少女の名前、だらんと口から飛び出た老人の舌といった映像が鮮明によみがえる。きっと映像に力がこもっていたせいだ。

かがり役の上村佳子が素晴らしい。

正直、こんな可愛げのない子役を使って大丈夫かと思いながら見てたのだが、終盤で大きな浴衣を着て走り回る彼女になんともいえない多幸感を覚えた。

木内みどりのとげとげしさと、すべてを包み込む佐々木すみ江も素晴らしい。

このふたり、ともにヌードシーンがある。

へえ、木内みどり、脱いでたんだと、ちょっとびっくりだったが、それ以上に当時59歳で古くからの名脇役だった佐々木すみ江が脱いでいたのには心底驚いた。

見上げた女優さんだ。

という具合に、だらだらだらだらと感想が浮かんできて、きりがない。

つまりは、傑作!!