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鹿鳴館のワイセツ論その10

 鹿鳴館サロンのエロはSМのエロであり、性異常のエロであり、性的逸脱のエロであり、性犯罪のエロなのである。つまり、そのエロの根底には禍々しいものが含まれてしまっているのである。それを、あたかも健全な趣味であるかのように誤魔化すことには、もう、無理がある。その時代は、終わったのだ。

 つまり、SМも変態も、ある人たちの功績によって、すっかり認知されたのである。それはそれで偉大な行動だったと筆者は思っている。感謝もしている。しかし、どんなものにも終わりは来るのだ。

 SМがイコール犯罪、性的異常がイコール反社会的と、そんな認識がなくなってくれたことは本当に良かったのだ。

 ただ、その一方で、SМを本当にただの趣味だと考える人が増えてしまったことは問題だった。あれは詭弁だったのだ。おそらく、それを唱えていた人たちもそれが詭弁だと分かっていてやっていたのだと思う。SМは趣味であり、SМ愛好カップルは愛の形としてそれを実践しているのだ、という詭弁だと。

 詭弁なので、本当は違う。

 やはり、SМの真相には、人としての倫理を外れたものがあるのだ。

 ゆえに、一歩間違えばSМは、危険なことになるのだ。別に縄が危険だとか、プレイが危険だとか、野外露出が犯罪だからと、そんなことではない。SМそのものが持つところの反社会性の危険がそこにあるということなのだ。

 鹿鳴館サロンで筆者は、たまに怒ることがある。めったに怒らない。もしかしたら唯一怒るかもしれないこと。それが差別なのだ。男女、老若、美醜、その他、SМは差別なしに、その表現が難しいものであるがゆえに、逆に、本気になったときには、それに全力で対抗しなければならないのである。

 ところが、人は集まると、必ずといっていいほど弱い物いじめをはじめる。三人集まればもっとも弱い一人を二人でいじめはじめると言っても過言ではないかもしれない。そして、そうしたことは、差別やいじめに過敏な人ほど起こしやすいのだ。そして、そうした人間は筆者の怒りに対して自分がいじめられたと勘違いする。差別の本質が見えていないからなのだ。

 ワイセツ用語に無神経な鹿鳴館は、従って、こちらの用語には神経を尖らせている。ある意味、ワイセツというなら、性器ではなく、むしろ、そうした人の心の表現用語のほうだろう、と、そうも思うからなのだ。

 さて、では、言葉狩りは必要なのかどうか。これについて考えて、そろそろ、この問題を一度、閉じておこう。