読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

【そもそも人間学とは何か】 風雅の至極「書斎での修業法」

知古嶋芳琉です。

 書斎での修業法というものがありまして、

もともとは難しい漢文で書かれたものですが、

これがなんとも味わい深いものがありまして、

私が好きな文章の一つです。

引用してご紹介しますのは、

PHP文庫の

安岡正篤:現代活学講話選集」の一冊、

『酔古堂剣掃(すいこどうけんすい)』の一節です。

−−−引用はここからです−−−

−−−原文−−−

吾が斎の中は虚礼を尚(とうと)ばず。

凡(およ)そ此の斎に入れば均(ひと)しく知己と為し、

分に随(したが)いて歓留(かんりゅう)し、

形を忘れて笑語し、

是非を言わず、

営利を侈(おご)らず、

間(しず)かに古今を談じ、

静かに山水を玩(もてあそ)び、

清茶好香、以って幽趣に適す。

臭味の交、斯くの如きのみ。

−−−原文の解説−−−

 書斎という言葉は大変いい言葉です。

 斎というのは、清浄、きれいに整える、厳粛と

いろいろの意味がある。

 汚れを落とすことを斎すると言う。

 「潔斎」などと言う。

 そこに書を置いて書を読む。

 勉強をするので書斎と言う。

 日本でもこれを早く取り入れて、

心ある外国人が感心する言葉の一つとして、

「親父は書斎」がある。

 親父の居る所は書斎と言う。

 大変深みもあり

かつ

清い

厳粛な

理想的な意味のある言葉である。

 女房を奥方、奥さんという。

 これはちょろちょろ外へ出てこないで、

ずっと奥に居るということ、

いわゆる奥ゆかしいことを表わす。

 親父はよく勉強する。

 ピリッとしたところがある。

 このごろは本当の意味の「奥さん」が

だんだんなくなって、出かけることばかり考える。

 奥さんの言葉に値しない。

 適しない婦人が多い。

 亭主は亭主であまり書斎なんかに入らない。

 ゴルフとかスポーツとか言って

出かけて遊ぶことばかりやっておる。

とにかく忙しいというのが

現代文明人の特徴の一つであるが、

しからば

なんで

そんなに忙しいのか。

問われてみると、

おそらく気恥ずかしいでありましょう。

−−

「吾が斎の中は虚礼を尚(とうと)ばず。

凡(およ)そ此の斎に入れば

均(ひと)しく知己と為し」、

わが書斎の中は

中身のない礼儀作法なんか貴くはない。

したがって

書斎に入るほどの人間は、

お互いに知己、

己を知る仲である。

人間というものは、

案外自分で自分がわからんもので、

親しい友に言われて初めて、

ああ俺がそうであったかと

気がつくことが善悪ともにある。

そこで本当の親友を知己と言う。

己を知る。

自分自身を知ってくれる、これが本当の友だ。

「此の斎に入れば均(ひと)しく知己と為し」

とは、

とにもかくにも

この書斎に入れるほどの者は、

お互いに知己の仲だ。

「分に随(したが)いて歓留(かんりゅう)し」、

分に従って茶も出す酒も酌(く)む、

菓子も勧め丁寧にもてなして

気持ちよく引き止める。

そして

「形を忘れて笑語し」、

形骸を忘れて愉快に話し合い、

あれがいいの悪いのと是非を言わん。

「営利を侈(おご)らず」、

商売がうまく当たったとか、

なんぼ儲かったなんて話はしない。

その間に古今を談じ、

静かに山水を弄び、

いい茶、いい香に心を休め、

そして幽趣、奥ゆかしい趣に適す。

「臭味の交、斯くの如きのみ」。

日本人の常識では

「臭味」と言うと「くさ味」と嫌なことになるが、

古典では、この臭と香とは同じ匂いである。

日本的に言うなら、

臭味でなくて香味(こうみ:飲食物のかおりと味)だ。

だから「臭味の交」とは、

同じ香りや味を好む者同士の交際です。

−−−原文−−−

書室中の修業法は、

心間(しずか)に

手懶(ものう)ければ

則(すなわ)ち

法帖(ほうちょう:書の手本とすべき古人の筆跡を

石・木に刻して拓本にとり、折り本に仕立てたもの。

墨帖。墨本)を観る。

その字を逐(お)うて、放置すべきを以ってなり。

手間(しずか)に

心懶(ものう)ければ、

則ち迂事(うじ:どうでもいいこと)を治む。

その作(な)すべく止(や)むべきを以ってなり。

心手倶(とも)に間(しずか)なれば

則ち字を写し詩文を作る。

その以って兼済すべきを以ってなり。

心手倶(とも)に懶(ものう)ければ、

則ち坐睡(ざすい)す。

その神を強役せざるを以ってなり。

心甚だ定まらざれば

宜(よろ)しく詩及び雑短の故事を看(み)るべし。

その意を看るに易(やす)くして

久しきに滞らざるを以ってなり。

心閑(しずか)に無事なれば

宜しく長編の文字或いは経註、或いは史伝、或いは

古人の文集を看るべし。

此れまた甚だ風雨の際及び寒夜に宜し、

また曰く

手冗(じょう)に心間なれば則ち思い、

心冗に手間なれば則ち臥(ふ)し、

心手倶に間なれば著作し字を書し、

心手倶に冗なれば蚤(はや)くその事を畢(お)えて

以って吾が神を寧(やす)んぜんことを思う。

−−−原文の解説−−−

「心間(しずか)に手懶(ものう)ければ

則ち法帖を観る」とは、

習字をするのに面倒くさいというようなときは、

自分で手習いをしないで、

手本、法帖をよく観る。

手習いには手で書く修業をすればなおいいが、

目が肥えることも非常に大事なことである。

「その字を逐(お)うて、放置すべきを以ってなり」、

墨をすったり筆をとったりしないで、

そういうことは抜きにして、

法帖の字を逐うていけばいい。

次は「心間」に対して「手間」である。

「手間に心懶(ものう)ければ」、

手は空いておるが心が懶(ものう)い、

すなわち気が進まんときには、

「迂事(うじ)を治む」。

迂は迂遠の迂でどうでもいいこと。

真っ直ぐに行くのではなくて、曲がりくねる。

ああでもない、こうでもないと迂事を治める。

「その作(な)すべく止(や)むべきを以ってなり」、

やってもいいし止めてもいい。

「心手倶(とも)に間(しずか)なれば

則ち字を写し詩文を作る。

その以って兼済すべきを以ってなり」、

心も手も静かならば

字を写したり詩文を作ったり

両方ともやってのけることができる。

「心手倶(とも)に懶(ものう)ければ、

則ち坐睡(ざすい)す。

その神を強役せざるを以ってなり」、

無理に心を働かせないで居眠る。

そう心得ての居眠りなら意味があります。

 「心甚だ定まらざれば、

宜(よろ)しく詩及び雑短の故事を看(み)るべし」、

心が甚だ定まらない、

落ち着かないときには、

詩や簡単な故事を看る。

いまに残っておるところの、

いろいろな事例を看る。

「その意を看るに易(やす)くして」とは、

意味がすぐわかる。

思索する必要がない。

そして

「久しきに滞らざるを以ってなり」、

長い文章・記事ではないから、

引っかかることがない。

停滞することがない。

その代わり、

「心閑(しずか)に無事なれば

宜しく長編の文字

或いは経註、

或いは史伝、

或いは古人の文集を看るべし。

此れまた甚だ風雨の際及び寒夜に宜し」。

それは風雨の、

あるいは寒い夜などには非常にいい。

「また曰く手冗(じょう)に心間なれば則ち思い」、

手が余って何かやってみたく、

心が静かであったならそのときには思索する。

「心冗に手間なれば則ち臥(ふ)し」、

心が何かあれこれゴタゴタしておって、

手はすいておるときには寝てしまう。

「心手倶に間なれば著作し字を書し、

心手倶に冗なれば蚤(はや)くその事を畢(お)えて

以って吾が神を寧(やす)んぜんことを思う」、

すなわち

心の深い無意識層、超意識層を

寧んぜんことを思うからだ。

 なかなか細かに立ち入って、

思索し吟味しておる。

 味わうと非常に教えられます。

−−−原文−−−

客に問いて薬方を写す。

多病に関するにあらず。

門を閉じて野史(やし)を聴く、

祇(た)だ間を偸(ぬす)むが為なり。

−−−原文の解説−−−

「客に問いて薬方を写す」、

客の中にはなかなか博学、

その道に通じておる専門家がある。

そういう客に会えば薬方を写す。

「多病に関するにあらず」、

別に自分が多病で

そのために尋ねるという意味ではない。

そんなことにかかわらず、

平生において

そう心がけておる。

これは非常にいい言葉だ。

私は昔から洋方・漢方に知人が多いので、

そういう連中に会うと、

雑談のついでによく聞いておく。

胃が重いときにはどんな薬がよいか。

腹をこわしたときにはどういうものがいいかと

始終健康について聴いている。

健康だけでなく、

自分自身の生活についても、

珍しいその方面の人と知り合いになると、

いろいろ尋ねて覚えて、

あるいは記憶しておきます。

私自身は、

元来、

いわゆる蒲柳(ほりゅう)の質であった。

弱い胃である。

にもかかわらず、

考えてみると、

無理な生活をしてきた。

たとえば中学も五年通って、

一里くらいの距離を毎日、徒歩通学をやった。

体操も運動場でやる決まりきったものでなく、

四条畷(しじょうなわて)の

飯盛山(いいもりやま)古戦場を

駆け足で山登りをさせられた。

非常に鍛えられ、足が丈夫になった。

その代わり、

本を読みながら一里の道を歩いたり、

ときには本に夢中になって

猛牛にぶつかったこともあった。

当たり前なら撥ね飛ばされるんだが、

牛のほうがびっくりして、

なんという奴だという顔をして牛が避けたが、

無心というものはいいものである。

そうでなければ

撥ね飛ばされていたに違いありません。

そんな経験をしたものだから、

眼を非常に悪くしてしまった。

強度の近視眼。

しかも眼科医に言わせると質が悪い。

ところがどうしたことか、

それ以上は悪くならない。

いまだに少しも目の不自由を感じない。

ことに

このごろはいい歳になって、

近視と遠視が平均したものとみえて、

眼鏡を外せば、

英語やドイツ語の

細かいレクラム文庫なんていうものも読める。

漢籍の細かい活字本なんかも

眼鏡を外せば普通に読める。

本当に

文字どおり

蒲柳の質だったけれども、

一向病気もしないし、

また大酒も飲んだ。

いまでもどうかすると、

気持ちが良ければ人が心配するくらい飲む。

 それもこれも平常の心がけ、

素養というものを大事にしてきたおかげだと思う。

昆虫が触覚を働かすように、

心を働かせて、

これはいかんと気がついたら

善をとって悪を捨てることを心がけておれば、

人間は病気をしたりぼけたりしないはずだ。

私自身の長い体験でしみじみ感じております。

「門を閉じて野史(やし)を聴く」、

野史とは民間の歴史のことで、

正史に対して野史という。

読むのを「聴くというのは合わん」

と思う人がいるかも知れんが、

聴くというのは、何も耳でばかり聴くものでない。

 心で聴く。

そこで聴くという字には

「まかす」という意味がある。

 「まかす」「ゆるす」である。

読むと聴くとは同じだ。

「祇(た)だ間を偸(ぬす)むが為なり」、

ぼんやりして間を逸す、

逃がしてしまうところを

「間(暇)を偸(ぬす)む」

としたところに文章の妙があります。

−−−引用はここまでです−−−

ここからは知古嶋芳琉が書いています。

ここにご紹介した一節は

私のお気に入りの一つです。

その中でも特に、

『「心手倶(とも)に懶(ものう)ければ、

則ち坐睡(ざすい)す。

 その神を強役せざるを以ってなり」、

無理に心を働かせないで居眠る。

 そう心得ての居眠りなら意味があります。』

と説かれておりますように、

何か考えごととかアイディアを練っている場合、

行き詰ったら無理をしないで、

いっそのこと居眠りをしたほうがいいのです。

この方法の効果については、

『億万長者専門学校』の

クリス岡崎さんからも聞きましたし、

自分が経験した結果からも

同じことが言えます。

いつの間にか居眠りをして、

それから覚めて、

今まで考えていたことを再開したようなときに、

良いアイディアが出てきたり、

いろいろな考え方や

ものの見方を変えてみることができました。

同様のことは、

ビジネス・トレーニングの

コーチの方からも、

教えていただきました。

21世紀の現代に通用する教えです。

これには私も思い当たることが多く、

誰の眼もない、

我が家の書斎ならではの効用です。

これが人目のある会社の机では、

周囲の顰蹙(ひんしゅく)をかってしまうでしょう。

一人になれる書斎ならではの効用です。

−−

もっと面白いのが、

『「心冗に手間なれば則ち臥(ふ)し」、

心が何かあれこれゴタゴタしておって、

手はすいておるときには寝てしまう』

という、これです。

心が何やかやと、

いろいろな問題に気がついて

煩わしくなって、

しかも

どれから手をつけたら良いのかわからなくなったら、

寝てしまえというのです。

私は、

どうしても

夜中に頭が冴える

夜行性の性分なので、

明るいうちは何かと睡眠不足だったりします。

普通の人にはとても考えられないでしょうが、

午前中であれ、

午後になってからであれ、

眠ければ

布団にもぐりこんで、

本格的に寝てしまうのです。

熟睡とはいっても、

実際には

そう長い時間はかからないもので、

せいぜい

2時間程度のことです。

この短い時間の睡眠のお陰で、

本当に頭がスッキリします。

昔の偉い人もこれをやっておったのかと思うと、

なんとも痛快です。