無力さ

重たい荷ほど軽くなる、という世界が味わえる世界。

『無力さ』は人間にあっては、悲しむべき出来事。

しかし神の御前では『恵み』です。

『重荷は預け、恵みに預かる』

説教原稿修正作業も、第4弾目。

私はふだん『福音派』系のメッセージを礼拝で聞いていますが、

アメリカのペンテコステ礼拝などもユーチューブで

英語のまま、よくわからなくても聞くようにしています。

また中国でそうしていたように、教会の中では

ひかえていますが、異言を語り

相変わらず、癒しを行い、悪霊を追い出す、ということも

しています。

いずれにしても、み言葉に立つことだと毎日思い示されます。

み言葉は深い世界です。ですので、これが全部の解釈ではないでしょう。

私も、『神のことばひとつひとつ』で歩めることを期待します。

無力さ                     マタイによる福音書11章28〜30節   2015.1/18

マタイによる福音書11章28〜30節

11:28 すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。

11:29 わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。

11:30 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」。

今朝は聖書の中でも特に有名なこの箇所から、今朝ならではの特別な恵みに預かりたいと願っています。

ひと言お祈りいたします。

教会を初めて訪れた時に、この聖書の言葉と教会の入り口で出会われた経験がある方もいらっしゃると思います。

かつて泉重千代さんという1886年に誕生され121歳で亡くなられた男性最年長記録の方がおりました。 

まだ子どもだった私も当時の報道を印象深く覚えています。110歳の誕生日、取材に来たアナウンサーが、「おじいちゃん、好きな女性はどんなタイプですか?」と聞いた時、重千代さんは、「年上の女」と答えたというエピソードも当時よく話題になりました。また、1日中(24時間)寝ていて、1日中起きているのはザラで、時には、3日間も寝ていたそうです。この方の、晩年の自然体(ナチュラル)な生き方など、ある意味とてもうらやましいと思います。

しかし、私たちのほとんどは、日ごろ多くの責任の中に生きています。子供たちも学校の課題、部活、そして友達関係、当然ご家族の柱となるご主人は仕事、そしてお母さんも子育て、そしてある方は介護、さらに学校の先生も、お医者さんも、様々の立場で、それぞれ責任のある立場にいらっしゃる方でも、たとえそうではなくても、たくさんの責任を背負って、この社会で、そして人生を生きていくのであります。

もう、どうにも、こうにも 責任が重くて、首があがらなくなりました。 腰が立たなくなりました。そういう痛みの中にいらっしゃる方も、皆さんの中にいらっしゃるかもしれません。

日本人は案外カンタンに「頑張って下さい」という言葉を使います。

それはもちろん応援の言葉です。ですが、もう十分に頑張っていますよ、という方がほとんどではないでしょうか。あるいは、頑張りたいけれども、頑張れない、という方にとっては、この言葉は応援に聞こえないのです。昨日は、ちょうど阪神大震災から20年目でした。そして、3/11の大震災はもうすぐ4年の歳月を迎えることになります。このような大災害の被害者の方々に対して、「頑張れと言うのは酷じゃないか?」と言われるようになりました。苦しみ悲しんでいる人に「元気を出してね」も逆効果です。

疲れ果て、「もう頑張れない」と心の緊張の糸が切れそうな人に、私たちはどう接したらよいのでしょう。

近頃は、その「頑張って下さい」という言葉の代わりに、”絆”とか、「あなたは一人じゃない」という言葉が使われるようになりました。これも頑張りたいけれども、頑張れない、という方にとっては、酷な言葉になるのです。被災地のF県にお住まいの方がおりました。他県に住んでいる弟さんにこう電話で話したと言います。

「お前は、頑張れって言うけど、分かってる? 津波で家が流された俺には、ホッとする為に帰る家が無いんだよ。昔を振り返って慰められるアルバムも何も無い。顔なじみの人が流されていく光景を何百万回も思い出した。重い荷物を持っている人々を追い抜いて、自分だけが助かった後悔で夜も眠れない。やっと眠れても、その光景を夢で見て目が覚める。 復興する気持ちの支えとなる、守ろうとする人も、もういない。仕事も無い。力が尽きたんだ。 TVで、『絆』や、『あなたは一人じゃ無い』という言葉を聴く度、『ああ、あの人は安定している所で、家も仕事もある所から言っている。TVの向こうと、こちらとは全然世界が違うと思うんだ。ボランティアの人々でさえ、帰る時には、『頑張ってください』と言って家に帰っていく』」

違う土俵に立っている人の「頑張って下さい」は、「もう、これ以上頑張れない」と呻いている人の、心の糸を切ってしまう事さえあるのです。

では疲れ切っている人が求めている事は何でしょうか? ただ一緒にいて欲しい。やっと言葉となって、自分の口から漏れ出て来る思いを聴いて欲しい。そして、ただ頷いて欲しい。一緒に涙を流して欲しい。「私に出来る事はありますか?」と聞いて欲しいのではないでしょうか?上からのお仕着せで無く、隣人になる。それが、”人に出来る、共に重荷を負うという事”ではないかと思います。しかし、そのような人でも出来ることには限界があります。ボランティアも帰っていきます。

そんな時 神様のひとり子として私たちを救うために世に来られたイエス様は、こう言われるのです。

「全て重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。あなた方を休ませてあげよう」

えーいくら何でも,無理でしょう。だって、イエスキリストってどこにいるんだよー? おそらく、そう思われる方もおられるかもしれません。ここで、イエス様が言われる「休ませてあげる」という表現は、竪琴などの張りつめた弦を緩める時に用いる言葉だそうです。「あなた方は皆、罪、悲しみ、苦しみ、悩み等の多くの重荷で喘いでいる。私は必ず、あなた方の心の緊張を緩めてあげる」と言われるのです。

本当にそれをして下さるなら、と思われる方、さらにイエス様は、「私は柔和で心のへりくだった者であるから…」と言われます。これは、イエス様は、優しく、そして同じ目線で見て共にいてくださる。一緒にいるとリラックスできるお方だと言っているのです。本当にそんなことができるお方なんでしょうか?

イエス様が与えて下さる魂の休みは、手品の様に重荷を取り去って与えて下さるものとは違います。また、「もう、何も背負わなくて良いよ。重荷を投げ出しなさい」とも言われなかったのです。ただ、「私が、あなたと共にいて、あなたの重荷を共に負う」と言われるのです。

更に、「私のくびきを負いなさい」と言われます。「えっ、更に負わされるの?」と思われた方がおられるかも知れませんが、ご安心ください。イエス様はそのくびきは負いやすい、と言われています。

”くびき”というものは、昔、農作業の力仕事の時に、二頭の家畜の首と首をつなぐ為に用いた横木のことです。ですから、牛にとっては自分のペースでなく、隣の牛とペースがちがうと無理に働かせられる事になり、首の皮が擦り剥ける事があったようです。ですが、イエス様は、わたしのくびきは負いやすく、と仰います。

そうです、イエス様は柔和でへりくだっている私のペースで歩みなさい、と仰られます。そして、あなたの重荷を私は一緒に負いますよ、とも言って下さいます。

皆さん、イエス様が、私達の重荷を負って下さる場所とは、十字架です。神ご自身であるイエス様が十字架で、私達の罪を、身代わりに負って下さり、神に捨てられ呪われ審かれても当然の自分中心の私達を救って下さいました。そして、共にいてあなたの重荷を負って下さる世界を拓き、さらに永遠の御国を約束して下さったのです。

ある牧師がおりました。牧会に行き詰まり、いつも疲労感を感じるようになり、心が乾き、説教で恵みが語れなくなってしまいました。牧師を続ける事に困難を覚えて、あるセミナーに出席した後で、講師の先生に相談したそうです。その先生はじっと相談を聴き、こう言ったそうです。

「辛い時だからこそ、あなたは御言に聞き続けなさい。そして福音を語り続けなさい」

牧師という神に与えられた使命を捨てずに、あなたの重荷を負い続けなさいと言われたという意味です。

期待していた「重荷を置いて楽になったら良い」と反対の回答でした。でも、そのままでは、重荷の中で心が病んでしまいます。彼はどうしたら良いのか考えました。その時、先生の言葉の意味に気づいたのです。「ああ自分は、荷を降ろす事ばかり考えていた。むしろ自分に必要だったのは、イエス様から託された使命を、姿勢正しく負い直す事だ」と。それは、イエス様と共に、重荷(使命)を負う事です。苦しい現実の中で、”イエス様に信頼し、そして委ねる事”なのです。委ねるとは、人間である自分の無力さを知って、神ご自身であるイエス様に重荷をおまかせし切ることです。その後、彼は、主の安息が与えられ、癒されました。

イエス様は、「あなたも自分を捨て、自分の十字架を負って、私に従ってきなさい」「そうすれば、あなた方の魂に休みが与えられるであろう」とマタイ福音書(16:24 16:29)で言われています。

この朝、イエス様は、自分の重荷から目をそむかないで、自分の重荷を正直にわたしに差し出して、共に負って頂きなさい。(イエス様に信頼し、委ねなさい)と語りかけて下さっています。

ちょうど旅行をしている時に、駅の手荷物預かり所に預けるような信頼関係で、負っているものを自分でどうにかしようと持ち運ばないで、イエス様にお預けするのです。

もうどうしようもない、切羽詰まった状況下で今まさにおられる方、ぜひイエス様のもとで荷を下ろして下さい。私達は、イエス様のこの語りかけの応答から、人知で計り知れない、神の平安を味わう事が出来ます。

自分は十字架を負っているのだ、とわかった時から、実は、私たちは共にいて下さるイエス様を証する者へと変えられ、ともに歩んでくれるこの方を賛美せずにおられなくなるのです。

お祈りします。

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